· 

でんでんむしのかなしみ

静坐会では、ヨガの動作をストレッチや体幹を整えるのに使って、

呼吸を調えるためには、1分音読をやっています。

参加者、世話人全員が、ひとつかふたつ、声に出して1分ほどの

小説や童話などを読みます。

世話人である私は、毎回、参加者の数を想定して用意するのですが、

今回は、堀辰雄の「風たちぬ」、佐藤春雄「退屈読本」、菊池寛訳の

「白雪姫」、樋口一葉「にごりえ」などでした。

 私は初めて声に出して「白雪姫」の女王様の鏡との会話を読みました。

新鮮な感覚でした。何回目かになったので、気づいたことがあります。

うまく読もうとすると、つっかえたり。先の文字を見て読み間違えたり

するのです。何も意図せず、ただその物語になって読む。これがいい

ようです。呼吸のために始めたことなのですが、そうではありませんでした。

 

読んでいるのを聞いた新見南吉の「でんでんむしのかなしみ」というお話

は、2分かかるので2回分でしたが、お釈迦様の子供を亡くした母親に

対して、芥子の実をもらっておいで、という説話を思い出しました。

 

坐禅の会というと、来たら、ハイ坐って、ですから、受け身になりがち

で、何かを感じ取るというのは結構難しいものです。

書道を独りで勉強しているような感じになりがちです。

 

そこで、身体を使って見たり、声を出したりして、茶話会の時間も合間、

合間にとって、最後に静坐を30分と、今はそんな風にしています。

 

私は、ここでの一分音読で出合った『怪盗二十面相』を図書館で借りて

読み始めました。初めて江戸川乱歩を読んでいます。

 

坐禅とか、静坐は自分を静かな時間に固定化するものではありません。

日常のその時、その時に行っていることにフォーカスして気持ちを散乱

しないでいる、そういうレッスンというか、方法をここで試してみる。

使えそうなものは、日常でもやってみる。

 

先日の「みかん集中法」は家で話したら、量子力学やら八卦掌の話に

なったんですよ、というお話をいただきましたが、私は宮本武蔵の

「観の目強く、見の目弱く」という風に思ったのですよ、とまったく

絡み合わない会話をしました。それでよいのだと思います。

 

今枝由郎さんの本『ブッダが説いた幸せな生き方』の中で、止と観に

ついて書いてある箇所を読んで、坐禅のことをこう位置付けていますね、

と話しましたが、これもまた空回り。それもまた楽しいことです。

 

世界は、人によっていろいろに見えるのですから、それをこれです、と

決める必要はありません。「絶対」というのを好む人は、人の思考を

ひとつにまとめようという傾向があるように思います。

宗教の世界によくあることです。

 

この静坐会はそうならないように、やっていきたいと思います。