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静坐には優劣はありません

学校や会社、それに習い事をしていると優劣がつきものですね。

オリンピックやスポーツ競技は、優劣を競って頂点をめざすものですが

教育とは試験の優劣を競う場だ、社会的ステータスの土台だと思っている人、

人生とは、金と地位と尊敬を集めてナンボだ、と思っている人もいます。

そうしたい人は、それでいいのでありますが、なんだか地獄絵巻に出てくる

「餓鬼」の姿のようにも感じます。一生、気が休まることもなさそうで

気の毒な気がします。

 

坐禅を行う仏教の世界では、臨済宗では「さとり」を得て深めるため、所定の

公案はすべて透過(及第)して、はじめて指導者になれる、というのがあります。

専業の坊さんでも十年くらいでそこまで行ける人は稀と聞きます。

なんだか、難関大学のトップをめざすような世界にも見えます。

多くの人はそこまでは行けないか、あるいは目指さないのでしょうが、

人生というのは、頂点に立つから意味があるというなら、ほとんどの人は

名もなき砂利としてゴロゴロいて消えるだけの存在、のようですが、

果たしてそうでしょうか?

 

佐々木閑さんによれば、仏教の創始者のお釈迦様のいた時代は、修行者は

入門した時期の順で尊重され、力量の優劣で順番をつけることはなかった

といいます。まぁ、禅宗というのは中国でお釈迦様をレスペクトして

できた宗教ですし、科挙があった中国ですから、優劣を競う社会習慣が

反映されたのでしょう。日本はそれを直輸入してそのままやっている

わけです。日本的な色合いからすれば道元さんの禅宗の方が、日本人の

気持ちに近いような気がしますが、それは私がそう思っただけです。

 

ずいぶん脱線しましたが、

この会で行う「静坐」は、なにかの優劣を競うことはありません。

教養やら社会的な何かを得るようなこともない会です。

集中力が養えるとか、モノの見方が深まるとか、肩こりが軽減したとか、

いわゆる宗教世界の「ゴリヤク」のようなことは、とるに足らないこと

だと思っています。そういうもので人を絡めとるような会にはしたく

ないものだな、と思います。

日常生活から離れ、一時的に集中できて、その場では心の平安が得られても

日常に戻れば、元の木阿弥というのが「止」の瞑想と言われています。

すべての行いについて、その瞬間を意識して生きることができるように

なること、洞察の徹底、それが「観」の瞑想で、元の木阿弥にはならない

といいます。

それが、この静坐会のテーマでありますが、まだまだ、その準備運動という

ところですね。