· 

静坐の本意

二週間に一度の静坐会も4カ月目となりました。10日の土曜は

まだ誰も来ないだろう、とお経を唱えていましたら、いつもおいでに

なる方がみえて、読経が終わるまで少しお待たせしました。

静坐をただの集中術、あるいは心を穏やかにする方法だとすれば、

家で一人好きな時間にやればいいことなのです。

四句誓願文にあるような、仏教の本意をいうつもりはありません。

そんな大上段に振りかぶることではなく、次回の用意をする中で

の気づきがあったり、それをやっている中で参加者の反応や動作

それに感想が自分だけでやっていたのではわからなかったことに

出会えるのです。つまり、参加者はお互いに先生なわけです。

茶話でのなにげない会話も大事ですね。夜郎自大という奢りの

ある自分に気づくことができます。

 仏像があるわけでなし、掛け軸ひとつも架けることのない会です。

10日の土曜日は、「歩く動作」をやったり、「自律神経訓練法」の

ポイントと注意する点についてもやってみました。

1分音読では、有島武郎、泉鏡花、太宰治などを読んで、詳しい

方から、それぞれの作家の背景などを聞くのも、とても楽しいです。

 結局のところ、参加者がそれぞれこの場が意義あるものだったら

いいな、と思うのです。それが相手を気遣う気持ちにつながったら

それでひとまずは良いのだと思います。

 『宗旦伝授聞書』というのがあるのですか?

「茶湯はわが身の理(ことわり)を知りて分に相応するを本意とす」

ここでの事は、理におちないあり方でそれぞれが過ごせたらな、

と思うのです。