集中するためには集中をしない

坐禅とか瞑想というと、たいていの本に出てくるのが、

三昧とか、集中ということだが、意識してこれになろうと

すると、頭の中で考えがグルグルとめくる、という経験を

した方もあろう。

実は、集中とは集中しないことだし、三昧とは三昧を目指す

ものではない。そんなことは意識しない時に「なってしまっている」

ものなのだ。

たとうば、坐禅で息を数えるとか、身体の一部に意識を向ける、

動作に意識を向けるというのは、全部意識を内向させない、

あるいは、考えて集中しようということをさせない方法なのだ。

 

それから、世の中は人間が居てできている、と勘違いしている人がいる。

人間がいなくても地球はその前からあったし、人間がいなくなっても

おそらく地球がなくなっても、星々はなんらかまだあるだろうし、

人間の思惑などは、いらぬお世話なのだ。

 

中学校あたりで、コペルニクスが地動説を唱え、天動説の教会から

迫害された、というのを読んだ人は大勢いるだろうが、

あれは、「どちらが動いている」という話ではない。

世界は人間中心に回っている、というのが、人間なんて関係なしに

存在し動いているということなのだ。

 

つまり、世界は人間の思う通りに動くわけもないし、集中して

なんとかなるのは、自分の考え方や行動を変化させて、見方を変えて

自分なりに落としどころを見つけたり、人間同士の共感づくり

と言うことではなかろうか。坐禅を禅といいかえていいかどうかは

宗派によるが、禅とは、文化の否定であり、主体的な人間の否定

だと書いているのは久松真一さんだが、この考え方に立てば、

自分のこれからに役に立つ、風なことをいって勧誘するような

禅の一派があるとしたら、とんだ食わせ物だ、といっていいの

だと思う。禅はそんな人間世界の通行手形のような狭いものでは

なかろう。

 

放てば手に満てり、という語もあるが、掴もうとしたら手に入らない

とか、頭の中に先入観がいっぱいだとホンモノは入っていかない、などと

説明する人もいるが、手を握っていようと、開いていようと同じで、

はじめから変わらないのに、人の考えの方向性や動作で変わるものでもない。

思惑による技巧のようになってしまう。

 

そうではなく、ここに来たら身体にまかせ、呼吸にまかせ、坐って

いるのがよければ居座ればいいし、立っているのがよければ立って、

歩いているのがよければあるけばいい、そういう静坐でありたい

ものだと思う。それぞれ思うようにやったらいい。

一応「型」はあるから、説明はするがその先はそれぞれの目的が

あろう。人は、良いこともすれば悪事も行う。

そんなことを静坐の世界で、ああだ、こうだというつもりはない。

悪いヤツは徹底悪いヤツになればいいし、良いと思うことをやる

ならやればいい。