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そうだったんだ、という時

静坐で使っている部屋は20畳以上。

普段はマスクをはずして坐れるように、それぞれが

3メートル以上離れて坐っている、もちろん、窓もあけて。

写真だけは坐っている感じがわかるように座布団を寄せた。

 

さて、4日の午前中の静坐会は、息を調えるために取り入れた

朗読の名作のコピーを忘れたので、各人読みたい本の持ち寄り

となった。宮澤賢治の『春と修羅』の「序」、修養団伊勢青少年研修

センターの元道場長でいらっしゃった中山靖雄さんの『すべては今の

ためにあったこと』、そして、森下典子さんの『日日是好日』。それに

草野心平詩集より『蛙のうた』、久松真一さんの『茶道の哲学』。

 参加者の方が、あとで、本は人となりを映す、と言っていたが、

その語り口も含めそういうことなのだろう。用意されたものから読む

ものを選ぶより、自分の好きなものを持ち寄る、ということで

新たな発見があった。アクシデントが活かされた。

そして、誰かの読んだ中に、どこのなんというフレーズかすら

思い出せないけれど、そうだったんだ、という気がした。

 

ストレッチも20分くらいやって、お茶タイムもいつものとおりとったら、

静坐の時間は30分ほどしか残らなかった。

「もっと坐っていたい」と声が出たほど、良い時間だったようだ。

 

一人で、静坐をすることもいいが、楽器の演奏のように複数で坐った

時にハーモニーとなることが集まって坐る意義である。

計算され、準備したメニューもいいが、アクシデントの時に思わぬ

ものが出てくる。参加者のお一人は、本を持ち寄ることを知らずに

来たのであるが、今日は持ち寄りで、と言ったら、バッグの中から

本が出てきた。当意即妙という言葉が思わず浮かんだものだ。

 

 

春と修羅  序 (宮沢賢治) (mukei-r.net)

 

次回は11月19日の土曜日。ストレッチの時間を減らそう。

あるいは、もうちょっと前から始めて、坐る時間を長くとろう。

お茶の時間は、ウーン、これは必要だな。

 

今日の会が終わったとき、お茶をたてるという話題になり、

部屋の向かいに水屋の代わりになるものがあるじゃない、という

ことになり、もしかすると、いずれ薄茶点前を取り入れることが

できるかもしれません。この和室「炉」もきってあるからお茶もできる

ようにしてあるんですしね。