静坐とか、瞑想とか、坐禅とか、あるいは字を書いていても
そうだが、ひとりで行うもののように思うが、誰か別の人から
聞かれてわかるものがある。
師匠とか先生がいると、人によってはすべてを委ねてしまって
わけのわからぬうちに日がたってしまうことがあるが、ひとり
だと、そうはいかない。進路を定め、自分で漕いでいかないと
やっていることが何なのかわからなくなる。
こんな時に、静坐ってなんですか? 字を書いていて何の役に
たつのですか?と初対面の人や家族から問われると、その時
は返答できなくとも、こういうものではないか、というのが
浮かんでくる。
仏教などの本で、無心とか、無我とかというのを見つけても
借り物ではしっくりしないし、わかった気がしないものだ。
何かが浮かぶまで、何年もたつことがあるが、学校や職場の
試験ではないのだから、気にすることはない。
静坐会に参加するというのは、何気ない会話の中に、あとで
大事なことを聞いたな、尋ねられたな、ということがある。
だから、毎回でなくてもいいので、一緒に坐り、そして
お茶とお菓子の茶話会が大事なのだと思う。
そんなことで、最近は茶話会の時間がだんだん長くなってきて
いるから、1時間半程度という静坐会を前後の時間に伸ばしても
いいかなぁ、あるいは二次会があってもいいかなぁ、と思う
今日このごろである。