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静坐も言葉かもしれない

17日は、今年最後の静坐会でした。

私の試行で、身体やノドをほぐしてから、坐る

というのをやっているのですが、2回坐りました。

1回目は30分、2回目は10分です。

参加した方は、これが良かったというツイッターで

感想がありました。理由は書いてありませんでした。

私に意図はないのですが、1回目は自分の状態を確かめ

2回目はその状態を昇華する、という使い方もありましょう。

 

坐禅会でも2回坐るところがありますが、2回坐るのは、ただ

時間があるからではないのです。

 

言葉で伝わるものと、伝わらないものがあるのは、誰しも

頷くことと思いますが、若松英輔さんの本

『不滅の哲学 池田晶子』のはじめのところにこんなフレーズ

がありました。

「人の話を真剣に聞こうと耳をすますように、自己を知ろう

とする者もまた、内心の声に耳をすまさなければならない。

何ものかにむかって叫ぶように問う声を、ひとたび鎮めなけ

ればならない。自己を救うコトバは、いつもその人の中に

潜んでいる。」

 

言葉とは、何なのか、それについてこんなことも書いてあった。

「人が自己の存在をはっきりと感じるのは、言葉を発した

ときではなく、自身の言葉が受け止められたときである。」

そして、池田晶子は「コトバは人を救わずにいられない。」

といい、若松は「まなざしも言葉である」と言う。

 

静坐にもそういうところがある、と私は思う。