音符は読めなくとも

 楽器を奏でるには楽譜が読めることが必要ですが、

私は全く読めません。

 外国人と話すには外国語が話せることが必要ですが、

私は全く話せません。

 でも、私は音楽を聞いたり歌を真似することができます。

外国人が日本語を話してくれたり、話せなくとも身振り

手振りで意思疎通することができます。

 

 では、坐禅やら静坐、仏教の教義がわからないと、

その真髄はわからないのでしょうか?

そんなことはないですよね。

私たちは、箸の使い方を言葉で説明できなくとも、手に

持ち方や動かし方を命令しないでも、必要なことができます。

理屈がわからなくとも、そのようになっているわけです。

仏教の教義や坐禅の理屈がわからなくとも、宮澤賢治の

詩の中にあるように「あらゆることを自分を勘定にいれずに」

している人は、達している人なのだと思います。

 

ただ、呼吸をゆったりとして、坐るのでもよし、歩くのでも

よし、むしろ川の土手のひろぴろとしたところを景色を

観ながら、頭に浮かんだことを浮かんだままにまかせて

歩いているだけで十分かもしれません。

 

長く続くものは、長く続けようとしなくとも自然に

長く続いてしまうもので、どんなに理屈づくで続けようとしても

自分にとって、あるいは周りにとって必要がなくなると

続けられなくなるものです。

 

静坐をすることが続くかどうか、というのも同じだと

思います。

 

2月のはじめから4月のはじめまで静坐会がありませんが、

「せぬ時の静坐」はどんなであろうか、と思ってみてください。

なにかしら、なんだ、そういうことだったのか、とひらめく

ことがあるかもしれません。

 やらないほうがいいのは、仏教の本を読んだり坐禅の本を

考えもせずに読むことです。わかったような感じになっても

ただ憑依されているだけです。

読書論の中にも、そのことを警告するのがありますね。

インターネットショッピングでこういうのを聞いたことが

ありませんか?

「この商品を買った人は、こんな商品も買っています。」

これを「坐禅をやっている人は、この仏教の話を体得しています。」

というのと同じなのです。

購入履歴から主体性を奪われるようなことを、人というのは

他のことでもやってしまうものなのですよ。