5月27日の土曜日は、ほぼ一月ぶりの静坐会でした。
この一月の間、岡田式静坐法の本を三冊読んだり、
3分間マインドフルネスというのが書いてあるものを見たり、
仕事やボランティアの会ではストレスフルなことがありました。
こんな中、久しぶりに正座というもので坐ってみましたが、
お茶や武道をしていないので、しっくりいかないのです。
半跏趺坐だと楽に坐れるのですが、これはなんだろう?と
いうと、軸というより重心の置き所が誤まっているのでは
ないかと思うのです。理屈はそういうことですが、呼吸と
同じで理屈のとおりにはなかなかいきません。
もうひとつ思ったことは、坐るというのは、生活の総合的な
ものが表れるということです。食事や睡眠、ストレスなどの
感情の状態、それに身体の健康状態にも左右されるのです。
どこにいてもどんな状態であっても、ピタッと静寂の坐に
身を置けるということはなかなか難しいものです。
だから、禅寺は日常と隔絶された場所と生活で修行が
行われているわけです。
ですから、ストレスや日常生活でいろいろある私たちは、
静座したら万事スッキリということを目標にするのではなく
自己がどんな状態にあるのかを確かめる体重計や血圧測定の
ように思って気楽に坐ったら良いと思います。
そうして、ああ、自分は少しイライラしていたな、食べ過ぎて
いたな、不規則な生活だったな、とまず気づく、そうして
他が調ってくると、身体の軸や呼吸も整ってくるものです。
静坐とは「魔法のツール」ではありません。
自分の状態を映す鏡と思って坐ったらいいのです。それが、
当たり前のことが気づく時間の過ごし方、のように思います。
武道やら習い事のように「上達」のようなことを考えると
ますます隘路に入ってしまいますよ。
静坐はあたりまえのことをあたりまえにすることなのですから。