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解釈 ということ

世の中のことは、教えられたものを、そう信じこむことで

できている、と感じることがある。

お金に価値がある、というのも定説と言っていいと思うが、

「みんなで価値があると決めたから。」である。

ドルは、400年も前なら偽札かおもちゃであったろうし、

金はそれよりずっと長く通用しているが、それでも数千年。

 

では、「これは真理である。」という、仏教やら様々の宗教

というのは、どんなものだろう?

人が生きていくための知恵とか、智慧のように思うのだが、

どんなものだろう。

神が人間にくだしおかれたこと、もともとあった永遠の真理

を目覚めた人が発見したものという説明がなされることもある。

 

共通しているのは、人間あってのことで、虫やら爬虫類だけの世界

や植物だけの世界になったら、もっといえば、月のように生物の

存在が見当たらない世界だったら、真理を認める主体だか客体が

なくなったら、存在するのだろうか?

 

まぁ、生きていくための方便などと、いうつもりはないが、世の中の

ことは、思考の上の判断を基準をモノサシにして行っていく過程なの

ではなかろうか?  

 

思慮分別をせずに、非思量底を思量する、というのがあるが、

静坐をしていて、思料というか妄想しっぱなし、という時間もいいのでは

ないか。

 

普段はそんなことすら考えずに世の中の尺度に身を委ね、時の流れに

身をまかせ状態なのだから、と思った、10日、土曜日午前中の静坐

でした。