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人間という言葉の意味

前回、人は間が大事だから「人間」としたのだろう、という

根も葉もない憶測を書いたが、今日図書館で『仏教が生んだ

日本語』という本を見つけた。大谷大学編の毎日新聞社刊の

本である。

 

これによると、「仏教文献には、迷いの世界とその中に生存

する者のありさまを説いて「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・

天」と言っている。その六つの世界、六道の中の一つの「人」

が人間である。つまり、人間とは、人がかかわりあって生きて

いるこの迷いの世界を意味する言葉でぁったのである。だから、

「人」に「間」という字がつけられている。」

 

迷いの世界の中で私たちは「人」をやっているのだろうか?

 

そうではあるまい、人は、生きている間中でも、「地獄・餓鬼・

畜生・修羅・人・天」を行き来しているのではないか?

 

だから、「あんな良い人だなぜあんなことを」というのは不思議

でもなんでもないのだ。一皮むけば、鬼にもケモノにもなるのだ。

それを「人らしくいきたい」と「人」の時には、思うのだ。

 

だから、曹洞宗のある本には、坐禅をしているときは、「仏」を

している、という表現になるのではないか?

 

観音菩薩は、世間のそこら中にいて、というのが三十二化身と言ったり

するが、それはだれしも観音になっているときがある、一方、そこら

中に悪魔がいて、誰しもが悪魔になっているときがある。

 

七割、八割がた、人をやっているときが多いからなんとか人の世は

破滅せずにすんでいる、そんな気がする。

 

どうしたら、人でいられるか、果たして放っておけば、人は人のまま

なのか、それとも悪魔になるのか、西洋でも古来考えられてきたテーマ

だ。キリスト教のユダがその象徴だろう。

 

私の場合は、酒を飲まず、衆人監視の中で、ようやく「人」をやっている

気がします。 あなたはいかがでしょう?

 

ちなみに、坐禅ではおなじみの「三昧」という語は、この本にはどのように

説明されているかというと、「三」にも「昧」にも意味はない。サンスクリット

後のサマーディの音訳です、と書いてあります。それではあまりにもそっけが

ないので、自分と他人、自己と対象の念を脱却した境地とも書いています。

また、「三昧場」という語も載っていました。墓場という意味だそうです。

死んだら、三昧の状態から逸脱することはないだろう、生きているうちは、

やっているつもりでも始終フラフラしているけれど、という意味なのかも

しれませんね。