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おいでいただくありがたさ

この静坐会も昨年の6月からだから1年半になる。

今日坐りにおいでになる方がいるというので、昨日は

甘いお菓子、それと多胡麻のせんべいを用意した。

そして、二回坐り、星の本、この方は冥王星という日本名

をつけた方の本だというが、それと今年あったことなどを

お互いに話ながら、いつものとおり時間の半分は坐り、

半分は本を読んだり、茶話で過ごした。

 

一人で坐り続けるのは容易ではない。「会」というのは複数の

人の集まりなのだ。だから独りで針路を違わず、社会との接点

がなしでとなると、さて、どうなるのだろう? とお茶を飲み

話をしながら思った。

 

話は変わるが、

昨日硬筆で書いた文字の中に「老人の落ち込む病は貪欲である」

というのがあった。仏教の世界では、貪欲というのは、三毒の

一つで最もよくないことなのだが、どんな場合でも本当にそう

だろうか?

 

私欲は悪く公欲は良いなどそんな明確な区分ができるものだろうか? 

人との接点を持ち続けたいという思いが人を集わせ、そこでなんらか

の活動がある、それは生きているのに大事なことなのだ。もちろん、

人をだまして金をまきあげてやろう、などという目的は問題外だが、

ろくでもない集まりでもないよりまし、というより、世の中は大半

ろくでもない集まりでできている、のではないかとさえ思う。

 

また、脱線したが、

もし、静坐会に誰も来なくなったら、私は落ち込むだろうか?

そして、それは貪欲ということなのだろうか?

 

たぶん、誰も来なくなって、半年もすれば、会場を借りてやっている

静坐会という形はやめてしまうと思う。無償で借りているので

他の必要な人に譲らないわけにはいかないからだ。

 

それでは、一人で引きこもってしまうだろうか?

そうはなるまい。まだ、気持ちき内向きになっていない。

 

それよりまず、今おいでいただいている方にできるかぎりの

心からの謝意を表したい。それが二種類のお菓子だったのかも

しれない。本来なら「有難い話」でもするのがよいのだろうが、

今日話したのは、「シッタカブッタ」の歩き続ける意味を

紹介したくらいだったから、この会は「ろくでもない会」

なのかもしれないね。

でもまぁ、それだから楽しいのだと思う。

生きているというのは、つらいこと、苦しいことが大半で、

だから、楽しいことがほんのちょっとあることでまだ生きよう

かな、と思うのだと思う。