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坐禅にオカルトを求める人

オカルトというのは、超自然、神秘的、魔法的という語らしいが、

坐禅をすると、そういうものがどこからか舞い降りてくるのでは、

と思っている人がいるらしい。

 

たとえば、この記事はどうだろう>

中野信子に聞く、直感力の正体。 | Vogue Japan

「オカルト」という語を「直観力」という語に置き換えると、なにか

学問に裏打ちされたような気になりはしないか?

 名称ひとつで、受け取る印象が変わって、人はコロッと信じてしまう

ことがある。 「○〇商店」より「〇〇株式会社」の方が、信用力が

ありそうに感じたり、「〇〇研究会」より「〇〇学会」の方が権威の

ある団体に思えたりする。

 

学者が説明する「説」も、「通説」とか「定説」とかの「説」であり、

「今はこういう風に考える専門家が多い」ということで、未来永劫

絶対正しいということではないことは、ほとんどの人が、天動説に

対する地動説のことで知っているはずだ。

 

しかし、直観というのは便利なもので、何時間も何日も考えるのが面倒

な人にとっては、とっても便利なもので、横着者の伝家の宝刀という気

がしないでもない。また、名探偵コナンの決め文句のように「真実は

いつもひとつ」とか、「すべてまるっとすべてお見通しだぁ」という

TRICKの決め文句は、どこかお釈迦様やキリスト様の世界に近い。

「真実は無数か、あるかどうかもわからず、今まで証明した人がいない」

といったような、数学の難問のようなものがなにかの試験だったら、

難関の学校をパスした人でもチャレンジする人は極めて少数だろう。

正解があるから安心していられる、というのが宗教の一面だ。

 コタエは用意されている、というのはクイズを解くのが好きな

横着者にはもってこいなのだ。

 

クイズはともかく、問題の整理や検討が得意ではなく、

世間の諸問題や心情面での悩みについて考えあぐねて、神社や仏閣に詣でる

人が、「じゃぁ、坐禅でもやってみるか。」ということもあるだろうし、

思いついたことが「直観」だ、ということで、それがたまたま問題の解決

につなかったりすると、「坐禅をするのは正しかった」と勘違いすることがある。

 

「イワシの頭も信心から」というのは、こういうことのためにある宗教団体

のコマーシャルメッセージであろう。

 

先日、そちらの静坐会は、岡田式静坐法をやっているのですか?という問い合わせ

があったので、違いますよ、と答えたが、岡田虎次郎氏にもオカルト的逸話が

あって、一時期大勢の参加者がいたという。

 

わが、北浦和静坐会は、直観力を養う目的でやっているのでもなければ、

幸福を得られるわけでもなく、もちろん、参加者から金をまきあげようという

魂胆もない。

あるのは、二週間に一度、30分なりの時間を「坐る」というひとつのことだけ

の時間にする、それだけの会である。

 

こうしたら、呼吸が楽、あるいは坐っていて楽な姿勢、というのは尋ねられれば

いくつかの方法をお示しするが、直観力やら悟りだのことは、それぞれ、どうぞ

ご勝手に、と思う。ここは宗教団体でもなければ、真理を求める学術団体でもない。

 

坐って、本を読んで、体を少し動かして、お菓子を食べて茶を飲む会、

そういう会である。坐っていると自然に自分を確認することになるが、自分を確認

するために坐るわけではないのである。

目的的志向は、それぞれ個人でやってもらって結構、しかし、静坐会としては

そういう「はからい」は持たないのである。