2月24日の土曜日の静坐会は、私ひとりでした。
私の場合、仕事にしろプライベートにしろ、一人で考え
一人で行動することが多いので、一人は慣れたものです。
もちろん、複数の人への発言や意見調整の場面もありますが、
場数が減っているので、伝わるように話すのや、相手の言う
ことを理解して返答するのが、とってもへたになっている
のが難点です。
今回の静坐会は、音読が良かったです。
本は、スマナサーラさんの本。
『ブッダに学ぶ ほんとうの禅語』|感想・レビュー - 読書メーター (bookmeter.com)
初期仏典で、お釈迦様は秘密の教えはなくすべて「つまびらか」にしている。
それが読み取れない人のために、禅における公案は何を言っているかわからない
話や設問という手法で、先入観念をゼロクリアにしたうえで、ズバッと単刀直入に
ややもすれば、言葉を交えずにわかる、ために用いているのだ、と読めました。
本題に戻ると
音読というのは、黙読と違った気づきがあります。たぶん黙読では読み流すところが
ゆっくり音読する、わからなくても何度も音読すると浮かび上がるものがあります。
坐禅和讃も般若心経もそうです。
今回は、20畳以上の和室の中を、ひとりで超ゆっくりと20分以上ぐるぐると回って
20分で三周くらい歩くのもやった。禅の世界では経行というが、マインドフルネス
にもこの手法があります。
やってみてわかったのは、これは複数の人数で行うものではない。
なぜか? それはどうしてもほかの人の姿が見えるからそれと合わせようとする
意識が働くからだな、と思った。人と比較して行うこと、これはフンベッの
ありようではないか?
それでは、今ここで行っていることに集中している世界に水をさす。
ただ、一方では、図書館など静かな場所での勉強に慣れるのは、試験会場の場では
マイナスだ、という記事もなにかで読んだ。雑踏の中の集中こそが本当の姿なの
だろうが、衆を頼んで坐ることを習慣とする、という「他人頼み」の部分が
坐禅会というのがあるのかもしれない。
「もたれかかりあい」なのか、「助け合い」なのか「人」という字は、
参加者のこころがけ一つで変わるのかもしれない。
それはともかく、一人の静坐はいい。
これが自宅で毎日できればいうことはない。
次回は3月9日。その日も一人なら私の静坐は充実するだろう。
ただ、無料で借りている公民館の管理者からは、「今日もひとりの
ご利用ですか」と聞かれるかもしれないなぁ。