生き続けるということ

岸見一郎さんの『老いる勇気』の中に、

亡くなった人を思い出すとき、その人は

生き続けているんだ、というくだりがあります。

不死と書いてありました。

また、三木清の言葉「執着する何ものもないといった

虚無の心では人間はなかなか死ねないのではないか」、

「深く執着するものがある者は、死後自分の帰って

ゆくべきところをもっている」といいます。

執着してもいいと考えたほうが、執着から自由に

なれる、と岸見さんはいいます。

 

面白かったのは、古代のギリシャ人の考え方

「できるだけ生まれないようにしよう。それが幸福だ」

「でも、生まれてしまったらできるだけ早く死のう」

というところ。

ソロンという人は「人間は生きている限り何人も幸福ではない。」

と言ったという。

 

このあたり、人生とは四苦八苦だと言ったお釈迦様は、ギリシャ

の考え方を取り入れたのかもしれません。

 

それはともかく、生きている間は、ボーとしているわけには

いかないので、あれこれ理屈をつけて方向性を定めて行動する

のが人間です。

 

脱線しますが、合気道を習っていた時、師範は合気がわからなくても

できることとして、「掴まれて動けない腕を動かそうとするな、

身体で動くところを使え。」と教わりました。

力学の「支点、力点、作用点」の位置を相手有利から自分有利の

ところを探せ、というわけです。身体の向き、足の位置、を変える

だけで随分違うことができます。

 

これは、自分の得意なものを見いだせ、とも読めますし、自分が

きれいに見える化粧にもなりますし、死が動かせないなら動かす

ことのできる生を工夫せよ、ともなるわけです。

 

生き続けるということは、自分が動かせるものを探して、それを

工夫するプロセスなのだろうと、思います。

自分を動かすための基本信条をお金儲けに据えることも、

論語や禅や真善美に求めても、それはそれぞれにフィットするもの

を選べばいいのです。合わなければ、変えればいいのです。

生死の考えも今と将来で考えが変わってもいいのです。

人生に「万人共通の正解はない」のだと思います。

 

合気道という武道には試合がありません。つまり勝ち負けがない

わけです。続ける励みの手段として段とか級がありますが、

師範という指導者以外は、横一線で上下の区別はありません。

 

人生は、勝ち負けも上下もあるから、大変なんだ、という人は

大勢てるでしょうが、ないと考えたらどうでしょう?

お金やら地位やらは浮世のゲームのように思って、暮らしに困

らないほどの糧は稼ぐにしろ、つまらないものを追いかけてい

るうちに、人生ゲームが終了とならないようにしたいものです。